ジェイクロのクスッと

日常の出来事、思ったこと、体験したことをクスッと綴る。趣味はカメラと旅行、時々カヤック。興味は歴史と経済とスピリチュアル。関心は健康。特化は別荘ライフと英語かな?

カテゴリ: 歴史・教育

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 その昔、宮廷に使える女人であった嫦娥(こうが)が西王母から授かった不老不死の霊薬をもって、月へ逃れたところ、罰としてヒキガエルにされたという、中秋節にまつわる伝説がある。
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 よって、以来月にはヒキガエルがいる。日本ならウサギなのだが、大陸ではそのようになっている。つまり、月には不老不死の力がある。月水という、満月の夜に降る夜露を集めた水には、そのような不思議な力があり、若水とも言われる。

 オレは、この月とヒキガエルと不老不死の話が好きだ。

 昨夜は、皆既月食の夜であった。月食には禍をもたらす何かがあるという。昔は見てはいけないモノだったらしい。
 が、オレはベランダでその一部始終を鑑賞するチャンスを得た。寿司と鍋と月見酒、としゃれ込んだ。ワラ。
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 少しはカメラに収められるかとも思ったが、オレの望遠レンズは105mmまでである。まぁ、何も写らなかった。ワラ。 
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 一応、皆既の状態。見た目はもっとオレンジ色なのだが、普通のカメラではここまでだ。左下辺りに天王星とおぼしき星の点が見えた。数分後には消えたので、多分それだ。
 なお8倍の双眼鏡でみる月は中々美しかった。

 P.S.
 今、地震があった。茨城で震度5強。。。月は、何故茨城を狙ったのか。。。気になる。



 何を思い立ったか、もう四半世紀近くお蔵入りしていた雛人形をクローゼットの奥から取り出し、飾ってみた。結構な手間ではある。

 一つには、婆さん(俺の母親)が九十才を迎えたことがある。なので、ちょっぴりだけ、お祝いの気分を演出したのである。一族郎党を呼んで、パーティーでもやるかと提案したが、そういうのやるとポックリ逝くのでイランと言われた。なので、代替案だ。

 もう一つには、クローゼットの中、10年に一度くらいは整理しろという、オレの家人への隠れメッセージだ。案の定、粗大不要ゴミが排出された。

 というわけで、もしかしたら既に腐っているかも知れない雛人形のセットを引っ張り出したわけである。
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 三人官女の顔にシミでも浮き出ていたらしゃれにならなかったが、なんだかんだ言って、保存状態が良かった。まずはほっとした。そして結構立派なお雛様飾りであったことを再認識し、改めて出してあげて良かったなどと感慨に耽ってみるオレである。

 二十年以上も箱の中に閉じ込められていた彼らは、とてもかわいそうであった。すまんかったな、オマイラ。

 さて、探究心旺盛であるオレはふと考えた。そもそも、雛祭りとはなんなのか。なんとなく、平安時代の宮廷のオママゴトであろうことはわかるのだが、それ以上は知らない。

 桃の節句以外には、端午の節句、重陽の節句というのもあるが、知識としては中途半端である。節というからには、なんらかの節目ではあるのだが、それはなんなのか。

 なので、ちょっとだけ調べた。節句は大陸由来のなにかで5回あることがわかった。1月以外は奇数のぞろ目だ。七夕も入っていることが少し意外。

 人日の節句(1月7日)←七草がゆを食べる日
 上巳の節句(3月3日)←雛人形を飾る日
 端午の節句(5月5日)←鯉のぼりをあげる日
 七夕の節句(7月7日)←竹飾りを立てる日
 重陽の節句(9月9日)←謎(月に係わるなにかかな?)

 雛祭りは、上巳(じょうし)の節句と言うそうだが、邪気払いの為に人形を川に流すという風習から雛人形を飾るかたちに変化したようである。

 ところで、雛祭りは桃の節句ともいわれるわけだが、おかしくないか? 季節的には、桃より梅のほうがしっくりくる。理由は簡単。要は旧暦の3月3日が正しいのである。
 ということで、今年の旧暦3月3日はいつか調べた。4月3日である。桃の花がいつ頃咲くのかしらんが、4月ならまだしっくりくる。ということだ。

 オレ的には、これらの伝統行事は、旧暦で行うべきというのが持論である。元旦もそうだ。初春とか言いながら、糞寒いのが今時の正月である。本来の元旦は、大陸の春節と同じで、立春あたりのはずなのである。

 さて、次は5月5日である。何しているかな。

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 オレが、面白くもないことを色々調べていると、サンチャンも不思議そうだ。

 

 
 



 

   迎え盆・送り盆


 4年前に、正式に寺の檀家となった。最近の寺経営の難しさも人ごとではない感じがしている。墓じまい。。。我が家も遠くない将来そういう時がやってくるかも知れない。

 一昨年だったか、檀家組合から、誓約書の提出を求められた。寺への忠誠を誓うモノである。ワラ。それだけ、経営は逼迫、或いは檀家の寺離れが進んでいるとも考えられる。これも、時代の流れか。

 オレ的には、宗教の時代は終りを迎えていると思う。仏教よりも、キリスト教の方がヤバそうである。この先、宇宙人でも現れたら、驚天動地の大騒ぎになるに違いない。ワラ。

 今日は迎え盆だった。

 朝、余り暑くならないうちに出掛けた。墓掃除をして、線香を上げて、本来ならば、提灯を点すところ、百均のLEDランタンに火を付けて、「さぁ、爺ちゃん、これに乗れ」とお呪いのような、言葉を墓に掛けて、死者の魂を、その灯りに誘導する。

 提灯に火を点すのが習わしだが、車での移動中に、中のろうそくの火が消えてしまうリスクを回避する為のLEDランタンだ。

 今年は、コロナのせいにして、盆棚は手抜きした。それでも、電球提灯を点し、盆らしい雰囲気を造った。

 普段、仏壇に向かって、手を合わせたり、供え物をしている訳だが、何故か盆の時に限って、墓まで霊を迎えに行く。では、普段仏壇には誰が入っているんだ?とオレは、思い出しては悪態をついている。

 送り盆も然り。送った後に、仏壇には誰が入っているのか?そこに、誰もいないのなら、何に向かって手を合わせているのか。皆、それを疑問に思わないというのは、洗脳されたが故だろう。

 白鳳・天平、奈良時代、日本仏教は黎明期を迎えるわけだが、奈良市内の有名どころの寺には、普通の寺にあるべきモノがない。

 そう、それは墓だ。よく探せばあるのかも知れないが、法隆寺、東大寺、唐招提寺、薬師寺などなど、墓らしきものは見当たらない。隠してだけかも知れないが。

 奈良時代の寺。。。今で言うところの、大学、研究所であるのだから、少し考えてみれば至極当然のことなのだ。僧は、即ち学生であり、教授である。最先端の学問、科学を研究する場所であって、死者を弔うことを目的とした機関ではないのだ。

 京都に行くと、清水寺などには、墓がある。末法思想の時代に、仏教とあの世が結びついた結果であろう。さらに、鎌倉仏教によって、仏教は大衆・庶民化した。拝めば、皆極楽浄土に行ける。甘言であろうが、来世に救いを求める人々にとっては、願ったり叶ったりの申し出であったに違いない。

 この辺りから、仏教は結果的にビジネスになった。そして、仏教、寺といえば、死者を弔う場所になったのである。悪くないビジネスモデルなのだろう。が、21世紀になって、どうやらそのビジネスモデルに破綻の兆しが見え始めている。

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  49日の法要。墓場で、吸部ジャズと和尚のコラボ。


数珠はいいものを持とう。

 結論から言う。邪馬台国の所在地は、ズバリ京都府京丹後市から与謝野町に掛けての一帯。天橋立の周辺である

 長年にわたる研究の結果(ウソ)、最終的に結論が出た。。。

 俺はこの新説(多分多くの人が既に主張しているとは思ったが、もしかしたらオレが最初かも知れない。)には、かなりの説得力があると思う。
 ワラ。邪馬台国は、エジプトだったとか、ハワイだったとかそういう珍説ですらあるのだが、そこまで行くと、どうなってんの?と思う。笑止千万であろう。

 では、根拠を言おう。そこには、俺なりの幾つかのアプローチがある。

 1.そもそも、卑弥呼は、何故魏に難升米(なしめ)を使いとして出したのか?

 答えは、簡単。ビジネスである。そして、最新の科学・技術の輸入であろう。或いは、課税を正当化するために、日本の統治者としてのお墨付きを貰うということもあったはずだ。親魏倭王というヤツだ。
 即ち、遣唐使しかり、日明・日宋貿易しかりだ。遠方の人間と交流する動機は突き詰めれば、ビジネスでしかない。或いは安全保障上の理由。それは今も昔も変わらない。

 イーロンマスクが火星に行こうとしているのも、火星人とのビジネスが目的である。間違いない。ワラ。

 では、邪馬台国は何を取引したのかという話になる。答えは簡単だ。
 一つは、糸魚川の翡翠である。縄文時代には、すでに採取・加工が始まっている伝統産業だ。国力を蓄えるには十分な貿易産品といえる。
 糸魚川翡翠の出土分布は、北は北海道、西は朝鮮半島まで幅広い。翡翠の輸出製品加工地は、遺跡の多い、能登の羽咋周辺だろう。


翡翠は、身につけたい日本古来の宝石だな。間違いない。

 もう一つは、だ。魏志倭人伝にも養蚕が一つの産業だと書いてあるし、魏帝へ献上もしている。稲作の技術と共にこの時代大陸から渡ってきたと言うが、丹後半島から但馬地方の辺りが、古くからの養蚕業の拠点として有力だ。
 しかも丹後地方内陸部の湿潤な天候は、生糸作りに適しているそうだ。貿易産品としても、取引額においても、こっちがメインだったかも知れない。

 一方、朝鮮半島方面から入ってくるものは、銅や鉄であり、或いは最先端技術であった。

 売るものがなければ、買うものも買えない。魚を採ったり野菜を育てて、朝鮮半島方面に売るのは無理だ。
 こう考えると、大昔から、日本は加工貿易というものを得意としていたに違いない、としみじみと思うわけだ。

 翡翠の産地、糸魚川流域を押さえるのに、奈良や九州からでは不利だ。そんなところに、海外に使者を送ろうと考える強国は存在し得ないと思われる。
 おっと、これは語弊があるか。「使訳通ずるは三十国である」。。。みんな競って大陸と交流していたのだ。

 縄文時代、翡翠は東日本方面を中心に流通し、弥生時代になると、西日本方面を中心に広く出荷されたという研究結果もでている。邪馬台国が、西日本、朝鮮半島方面への翡翠のビジネスを拡大したと、俺は思う。

 因みに、翡翠のビジネスは奈良時代になると、パタリと止まったそうだ。仏教の伝来や律令制の始まりと何か関係があるのかも知れない。が、三種の神器の一つ八尺瓊勾玉は、紛れもない翡翠の勾玉である。(誰も見たことがないので、そういうことにしておく)


 2.邪馬台国は、どこを拠点にどうやって大陸と交易できたのか?

 上記1の考察から、邪馬台国の比定地は、日本海側に絞られる。(弥生時代、瀬戸内海は船の航行は出来なかった。航行が出来るようになったのは、五世紀末、雄略帝の時代まで待たなければならない。それ故の、断言である。)

 そうなると、この時点で考えられるのは、出雲周辺、天橋立周辺、敦賀周辺である。この候補地には、共通の特徴がある。由緒ある神社が存在しているということだ。比定地の候補には、平野部の広い福井も入れたいところだが、あの辺りには有力な神社がない。

  出雲 ー 出雲大社 
  天橋立 ー 籠神社(元伊勢)
  敦賀 ー 気比神宮

 今でこそ、神社と言えば、えらい神様がいて、拝めば祓い清めてくれる有り難い場所であるが、そもそも、そこは何だったのか?という視点が重要だ。

 明治神宮のような例は別にして、太古からある神社のその場所は、天から何かが降ってきたと言うような場所ではなく、そこは商業的な、或いは政治的、産業的な拠点だったとみるべきだ。なんらかの国益を生み出す、「現世御利益」の場所でなければならない。或いは軍事拠点か。

 ところで、上記三社の中の気比なのだが、ここの御祭神は「伊奢沙別命」(いざさわけのみこと)という、あまり聞かない神様である。社伝によると、かなりのローカルな、海人族系の、しかも新羅由来の人物らしい。仲哀天皇と同時代の人で、仲哀の奥さんが、卑弥呼ではないかとも言われる神功皇后である。
 
多分この神様は、卑弥呼と同時代か寧ろそれより後の人物だろう。こういうローカルな人物が、気比という古い神社で祀られているのに、卑弥呼がどこにも全く祀られていないというのはおかしな話である。

 それから、この敦賀という場所は、日本海から琵琶湖を経由して大和方面に抜ける重要物流、軍事拠点である。(もう一度言うが、この時代、瀬戸内海からは大陸方面へは行けなかった)
 神功も朝鮮出兵の時はここから軍を発しているし、たしか、壬申の乱の時も、大海人皇子と大友皇子が激戦を展開した場所である。
 気比は東西南北を結ぶ交通の要衝というのが、俺の見立てだ。

 よって、出雲はさておき、ここでは、籠神社を邪馬台国の重要通商拠点と考えて、すこし見てゆくことにする。

 まず、大陸から日本へやってくるときのルートは、釜山ー対馬ー壱岐ー(唐津)ー宗像であろう。この海の道を支配したのが、宗像海人族だ。
 ここから、邪馬台国方面へは、飛び石的に沿岸部を出雲、鳥取、丹後方面へと繋いでゆく。大きな船ではなく、手こぎの平底の所謂和船であろう。だとすると一日20キロも漕げれば御の字である。
 ただし、豊岡の袴狭(はかざ)遺跡から、外洋航海可能な十六艘の大船団を描いた線刻図が見つかっている。仮に希ではあったとしても、港湾施設や航路は十分に整っていたはずだ。

 そして、このルートには、神社が多い。それらは、この産業海路の補給拠点だと言われる。出雲もその一つであろう。魏志倭人伝によると、邪馬台国が七万戸である。その手前の投馬国が五万戸。距離的にも、その規模的にも出雲が「投馬国」に近い存在であろう。俺的考察。

 そして、船は丹後までやってくると、竹野川を上って、丹後半島の裏側、最後は船曳きして山を越え、宮津方面(阿蘇海)へと抜けるのである。「陸行一月」というのが、この部分だ。(掛かりすぎると思われるかも知れないが、これは魏の使者が来たときの旅程であることを理解するべきである。)

 竹野川の河口付近には、竹野神社があるが、これが今で言うところの成田か横浜の税関、或いは昔の箱根の関所のような役割を果たしていた場所だろう。当時、河口周辺は湖だったという。賑やかだったに違いない。その横には明神山古墳という前方後円墳もある。

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  竹野神社。御祭神は天照大神だ。

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  明神山古墳から日本海を望む。トータル190m、後円部だけで129mという。卑弥呼の墓並みかそれ以上にデカいんだよなぁ。四世紀後半の古墳だと言うが、どこまでホントか?

 ここから、竹野川を少し上っていくと、扇谷遺跡がある。京丹後市の紹介文によると以下の通りだ。

 「扇谷遺跡の二つの環濠は馬蹄形に巡らされ、内堀の延長は850メートルに及び、両濠も幅約4~6メートル、深さ約2~4メートルと大規模なものである。この遺跡で見つかった遺物は大量の弥生土器の他、中国源流の「陶けん」や未製品玉作り資材、鉄斧(てっぷ)、鉄滓(てっさい)、ガラス塊などがあり、中国・朝鮮半島との交易を行い自らも物を作り出していた集団が存在したものと考えられている。弥生前期末から中期初頭の比較的短期間の造営であり、この時期この地域に武力を伴う緊張関係があった証明と見られる。」

 この、竹野川流域、絶対侮ってはいけない、と今更ながらに思うのは、俺がよそ者だからだろう。
 
 さらに、竹野川を上ってゆくと、その先は、船曳き(人力)による山越えになり、阿蘇海に抜けるのだが、その手前には、大宮賣神社(おおみやめじんじゃ)がある。弥生時代からの遺跡(岩)が祀られていることからも、重要な拠点だったはずだ。

 おそらくここが、西から来る物資の集積地であったと思われる。砂鉄もここで荷下ろしされたことだろう。

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  大宮賣神社。御祭神は大宮賣神。宮中とここだけで祀られるという謎の、天皇家との繋がりが半端ない神様だ。

 ところで「陸行一月」という日数(陰暦で4週間か?)を考えるに、この竹野川上りにそんなに時間が掛かるのか?という疑問があろう。船を縄で繋ぎ、両岸から牛を使って牽いても、精々2、3日の行程だ。が、俺の考えはこうだ。

 (1)遠路はるばるやってきた魏の使者である。まずは長旅の疲れをお癒やしください、と竹野川河口辺りの迎賓館に案内し、飲めや歌えやの接待が1週間はつづいた。

 (2)魏から運んできた物品・物資の目録と現物の照合やら、積み卸しなどの荷役に相当の時間を要した。同時に、輸出産品(翡翠、絹、米など)を魏の船(来たとき宗像か竹野川河口で和船に乗り換えている可能性もある)に積み替えることもあるだろう。

 (3)魏が何時敵になるのかわからない。軍勢を催して攻めてくるかも知れない。なので、バカ正直に卑弥呼のいる場所へ直行することは考えにくい。とくに地誌研究などされないようにしなければならない。まだまだ都までは遠い、と思わせる必要がある。

 (4)鬼道を操る卑弥呼である。魏の使者を招き入れるタイミングを計っていたはずだ。「いついつのこの時刻に使節を都に入れる」くらいの判断はあったはずだ。それ故の、飲めや歌えの接待でもある。

 これが「陸行一月」の正体である。

 <小まとめ>
 
 邪馬台国は、糸魚川翡翠産地を掌握することによって、その加工貿易を発展させると共に、大陸から入ってきた新技術(稲作ー水稲耕作技術か、と養蚕)によって産業を発展させ、魏に使節を送るまでに国力を蓄えることに成功した。
 産業は、漁労、真珠の養殖、稲作、養蚕、絹織物、翡翠加工、製鉄などであった。
 さらに、その地勢によって近隣諸国に対する軍事的優位性を保つと共に、南の狗奴国と覇権を争った。狗奴国とは即ち、このとき大和地方を支配していた都市国家のことである。
 


 ところで、話は飛ぶが、出雲の国譲りという話も、邪馬台国との関係で重要な視点を与える。

 何故なら、出雲という場所は、邪馬台国側から観たとき、大陸貿易の際の一大拠点だったと思われるからだ。貿易中継点であるわけだから、出雲は中抜きも容易だったはずだ。これはやっただろう。そして膨大な利益を得ていた。
 これは邪馬台国側からすれば、取り除かねばならない商業的障害だったかも知れない。ちょっと、そこ、どいてくれる?という圧力は十分に掛かったはずだ。ワラ。

 つまりは、このロジスティックス拠点の垂直統合が、この国譲りの物語であろう。俺的考察。

 しかも荒神谷遺跡からは大量の銅剣が出土しているが、銅の文化の出雲が鉄の文化の邪馬台国に屈したという見方もできるわけだ。

 それから、スサノオが八岐大蛇をあの辺りで退治した話も興味深い。特に、八岐大蛇は、糸魚川方面から来た怪物ということになっている。娘を掠いに来るというが、本質は違う。では、どういうことだ? 

 単純だ。これは、邪馬台国から出雲に毎年、税金の取り立てのため、兵を率いて税吏がやってくる(或いは、翡翠取引の代金取り立て屋がやってくる)ということだ。何せ、親魏倭王なのだ。権力は半端ない。

 ある日、「カネ(或いは米?)はネーヨ」と嘆いていた出雲の役人のところにスサノオがやってくる。話を聞いたスサノオは、「問題ねーよ。だったら俺に任せろ、アマテラスは俺のねーちゃんだし、話を着けてやる」、或いは「ねーちゃん大嫌いだから、オマイラの味方する」とか言ったんだな。

 で、国税の八人衆がやってきたところで、酒宴で大接待をした。そして、そいつらが酔っ払って寝込んだところで、寝首を掻いた、というオチである。

 とすると、尻尾から出てきたという、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)も、元を辿れば、ねーちゃんの持ち物だ。
 ねーちゃんからすれば、ざけんなという話。アマテラスとスサノオの仲が最悪なのは、そのせいかもしれない。ワラ。
 当然、もう許さん。オマイラ出て行けの国譲りの話に繋がったわけだ。

 以上が、俺の見立てである。(キリッ)


 3.卑弥呼は誰だ?
 
 結論から言う。卑弥呼はスサノオのねーちゃん、アマテラスだ。勿論、アマテラスが卑弥呼になったのではなく、卑弥呼(日巫女)がアマテラスと言われるようになったのだ。

 その前に、卑弥呼=神功皇后説というのもあって、有力なわけだが、一応ここでこれを否定しておく。
 1.この説を唱える人の根拠はなんなのか不思議になるほど、これはありえない。何故なら、そもそも卑弥呼は結婚していない。どうして、これを無視するのかがわからない。

 2.誰かが魏に使いを出すとしたら、皇后ではなく夫の仲哀だろう。あり得なくね?という常識的な見方であろう。

 3.神功皇后(摂政70年??)の後の天皇が、いきなり応神になるというのは、卑弥呼の後男王が立って国乱れるとする魏志倭人伝の情報と真っ向から相反している。

 以上、三点、神功皇后説を論破するのに、十分な状況証拠であろう。というか、なんでこれ、無視する?

 しかも、神功皇后は、引きこもりの卑弥呼と違って、熊襲、三韓、新羅を征討している。そんな人物が、魏志にあのように書かれるわけがない。神功皇后は卑弥呼より、ずっとあとの時代の人物である。

 では、卑弥呼=アマテラスの根拠をあげよう。

 それは、以下の三つの神社の存在に尽きる。

 (1)籠神社(元伊勢)の存在。彦火明命(ひこほあかりのみこと)別名、天照国照彦火明命が主祭神。養蚕を司った神様だ。邪馬台国の主産業の一つではないか。豊受大神とアマテラス、海神(わたつみのかみ=航海の無事を司る神)が一緒に祀られている。

 第12代垂仁天皇の娘、倭姫命の時代に、伊勢に遷宮しているが、これは三世紀後半から四世紀中頃までの話と思われる。(但し、古事記にはこのことが書いてないという。。。怪しい。日本書紀の時にしでかした「後付け」だろう。)

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  籠神社。所謂元伊勢だ。案外小ぶりな神社である。

 (2)真名井神社の存在。籠神社の奥宮である。豊受大神が主祭神。五穀豊穣、とくに稲作の神様である。邪馬台国の主産業の一つだ。

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  籠神社から3、400m裏手に上がるとある。この先、写真撮影禁止。理由はわからない。俺的にはかなりのパワースポット。何も感じないのだが、そうなのだ。柵の向こうに弥生時代から鎮座するという岩がある。まさかとは思うが、その後ろ辺りに洞穴とかあったりしないよな?

 (3)比沼麻奈為神社の存在。豊受大神が主祭神。稲作だけでなく、養蚕も合せて指導した模様。伊勢外宮へ遷座したのは、雄略帝の時代、つまり大和王権が邪馬台国を力で上回り始めた時代だ。(五世紀のこと)

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  比沼麻奈為神社。ものすごく手入れが行き届いている。豊受大神はアマテラスに頼まれて(雄略帝の政略だと思う)、ここから伊勢の外宮に遷座した。

 こうして(1)(2)(3)そろい踏みで、稲作と養蚕の神様が揃った。つまり弥生時代、邪馬台国に、養蚕、絹織物、稲作の技術を伝えた二人の神様が、これらに祀られていると言うことなのだ。この二神は明らかに渡来系である。卑弥呼からすれば、多分センパイ筋なのだろう。

 アマテラス即ち卑弥呼、或いはそれ以前の王らが、彼らの力を用いて、国力を整えたと言うことだ。祀られて当然である。その渡来系(或いは子孫?)が、魏に使いを出せと卑弥呼に入れ知恵した可能性が大である。


 4.卑弥呼の墓はどこにある?

 それで、三世紀中頃、卑弥呼は死すわけだが、魏志倭人伝によると彼女の墓は直径百歩のサイズ(140m前後)だという。百人ほどの奴隷が殉葬されたともある。日本で最大級の円墳はさきたまの110mなので、卑弥呼の墓は前方後円墳だろう。

 与謝野町界隈で、このサイズに合致するのは、まずは蛭子山古墳である。丹後地方では三番目の大きさ。誰が埋葬されていたのかははっきりしていないようだが、地形を利用し、小山を切り盛りして造ったタイプのようだ。
 周辺に埋葬施設があって、複数の埋葬者がそこから見つかっている。殉葬者ということだ。ん?

 そしてもう一つの候補が、先に出てきた、明神山古墳(日本海側で二番目にデカい)だ。サイズ的にはこっちの方が大きい。ただ、卑弥呼を祀るのに、何故都から離れた竹野川河口付近のこの地に墓を作ったのか?という疑問は残る。国の玄関口に、国力誇示のために造ったということはあるかも知れない。

 網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)。こいつがラスボスである。蛭子山と明神山の丁度挟まれたような場所、ざっくり言うと、扇谷遺跡に最も近いところにある。
 最近の調査で、全長が200mを越える可能性が出てきているともいわれる。現在、周辺整備の工事中の模様。今後の発掘調査で、とんでもないものが発見されるかもしれない。

 以上三つの古墳を合せて、日本海三大古墳という。このうちのどれかが卑弥呼のものだろう。
 
 しかし、上記いづれも四世紀中頃から後半の築造と言われているので、卑弥呼の時代より百年近く下る。この築造推定年代を覆す証拠でもでてくれば、卑弥呼の墓の可能性は大きくなるだろう。

 おそらく、学会のヒエラルキーなるものがあって、奈良国立なんとかがその最高権威であるため、田舎の教育委員会が、彼らの権威を覆すような発表でもしようものなら、潰しに掛かるはずだ。
 だから、どんなものが出てきても、発表では、はい、そちらほど古くはありません。。。という忖度が働く。(はい、私は陰謀論者です。ワラ。)
 余程の証拠を出すしかない。

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 天橋立方面への旅で御世話になった、RV湯YOUパークの大宮のセントラーレ京丹後(温泉ホテル)さん。できたら、またお邪魔したい。

 そうした学会筋によると、前方後円墳の最古のものは三世紀中頃(まさに卑弥呼の時代)築造の大和政権下の箸墓だという。突然変異的に、そういう形式の墓スタイルが飛びだしたのだと言う。(俺並みのテキトーなこと言うな!これ、覆されたくないよな、連中的には、と勘ぐる次第)ワラ。

 俺は、そのころの大和は、邪馬台国と対立していた狗奴国のことだと思い始めている。というか、今しがたの思いつきなのだが。魏志によれば、邪馬台国の随分南の方に狗奴国はあるとなっているので、位置関係はしっくりする。 
 
 箸墓説を論破するために、もう少しこの話をするが、そもそも箸墓は平地に造られている。三世紀にそういう土木技術はまだない。それから、製鉄技術が必要だ。大規模な土木工事には道具がいるのだから。
 が、おいそれと鉄の道具は手には入らない。この時代墓を造るのなら、自然の山の形を利用するのが一番だろう。
 それから、鉄の道具があったにしても、じゃぁその鉄はどこから持ってきたんだ?という話になる。大陸からだ、が答えだが、大和地方が、直接調達する術はない。(1世紀頃淡路島に新羅由来の誰それによる製鉄所があったと言うが、この時期にはもうないはずだ)

 もう一つ言うと、三世紀の時点で、大和地方に、大陸まで渡れる船(構造船)を造れる技術がない。大和から大和川を下って、河内湖まで魚の買い出しに行く舟をつくるのが精一杯なのだ。遣唐使の時ですら、畿内ではなく安芸で船を造っている。
 卑弥呼がこの地方の王ならば、魏へ使者を送ることは不可能となる。これが決定的な状況証拠だ。
 
 ところで、大和王権が力を持ち始めるのは、やっぱり五世紀後半の雄略帝からだ(定説である)。何故か? 瀬戸内海を船で航行できるようになったのが、この頃だからである。
 四世紀の応神帝の時代に秦氏一族が大挙日本に移住したといわれるが、瀬戸内海を開削し、船が航行できるようにしたのは雄略帝なのだ。秦氏の技術を用いながら、大陸との交易権を邪馬台国(或いは丹後王国)に独占されていたのをよしとせず、自前の貿易ルートを開拓したのである。これで、国力を大いに伸ばしたのだろう。

 ちょいと話が横道にそれた。

 ついでに言っておくが、大和地方の一宮、パワースポットは、大神神社だ。三輪山をご神体として、主祭神は大物主大神である。彦火明命でもなければ、豊受大神でもない。
 箸墓=卑弥呼の墓という説が有力ではあるし、俺もそうだと思っていた。だが、こうやって見てくると、奈良周辺に卑弥呼臭はまったくない。

 それに、墓のスタイルを変えるということは、結構大きな決断だったろう。大王が生前に、俺の墓は先祖代々の大王のものとは違って、これこれこういうものにしろとでも、命令しない限り、そんな簡単には出来ない。
 現代でも、最近は面白おかしい墓石が目立つが、そういうのを選ぶのも、そこに入る当人だろう。

 そもそも、墓のデザインを前代未聞の形に変える、そういうことが出来る人物は「鬼道に仕え、よく衆を惑わす」ような、カリスマ性をもった王でなければならない。それはもう一人しかいない。卑弥呼である。

 後にアマテラスとなる人物の墓を真似ようという王が次から次へと現れ、卑弥呼にあやかるようにと、畿内方面を中心にその様式が各地に伝播したのだろう。俺的考察。

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 伊根の海。穏やかで豊かな海の恵みは、今も変わらない。

 さて、ここまで来たら、三種の神器のことにも触れておかなければならない。

 八咫鏡(やたのかがみ)ー 天の岩戸にアマテラスが隠れたときに、誰それが造ったと言うが、はっきりしない。アマテラス=卑弥呼だとしたら、魏帝が卑弥呼に送ったという銅鏡(倭王であることの証)である可能性は否定できない。

 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ー 俺の上述の説を持ってくれば、この剣は、徴税吏がアマテラス(=卑弥呼)の代理人であることを証明する手形の役割を果たしていたに違いない。スサノオはそれを奪ったわけだ。ただ、これは宝剣の類いではないだろう。扇谷あたりで造らせた鉄剣であると考えれば、すんなり納得がいく。邪馬台国は鉄の大規模生産地(インゴッドは輸入)である。その権威を示すには、十分であろう。

 もう一つ付け加えると、大神神社の大物主大神(万能の神)は、大国主命ではないかという説があるが、だとしたら、大国主命は、国譲りの際、邪馬台国と敵対する狗奴国に亡命したのではないかと考える。
 色々な知識や技術を持った彼が狗奴国で歓迎されたのは言うまでも無いし、その後の大和の発展の礎を築いたのかも知れない。大物主は実際にそのような神様として崇められているし、これが大国主命ならば、大神神社の御祭神にふさわしい人物である。

 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)ー 首飾りではないかと言われるが、当然、糸魚川の翡翠が使われたはずだ。これも岩戸隠れのときに、どこからか出てきた宝物だが、言うまでも無く、翡翠は卑弥呼の領内で産するものであり、鬼道を操る彼女が、この神秘の石を用いないはずがない。

 以上のことから、三種の神器はすべて卑弥呼に縁もゆかりもある物品ばかりである。何故、鏡と剣と勾玉でなければならないのかということも、大いなる謎であったが、これで十分に説明が付くだろう

 ついでに言うと、アマテラスがいた高天原とは、この邪馬台国のことである。天橋立は、伊弉諾か掛けた天界と下界を結ぶハシゴであったというし、豊受大神にまつわる天女の伝説もある。「天」には余程縁のある土地柄である。
 おそらく「天」とは、大陸のことであろう。その「天」から彼の地に大勢の渡来人が来たのである。豊岡の袴狭遺跡の十六艘の大船団を描いた線刻図というのは、頻繁に行き交う交易船という説が有力なようだが、1世紀頃の大量の渡来人の来訪を描いたものなのかも知れない。

 さてさて以上から、俺的には、卑弥呼=アマテラス説の根拠を十分に説明し、納得性が検証できたと思う訳である。これはもう間違いない、というレベルの俺的満足度。ワラ。

 考古学者でもないし、邪馬台国研究家でもない埼玉県人の俺にとって、邪馬台国はどこでも良かった。随分昔に、高木彬光の「邪馬台国の秘密」という推理小説を読んだことがある。彼は、物語の中で宇佐神宮を邪馬台国の都に比定した。何故か、そんなことがいつも頭の片隅にはあった。

 最近、箸墓がクローズアップされるようになって、ああ、やっと決着が付いたみたいだなと漠然に思っていた。或いは、「いや、徳島こそは!」とか、「いや、福井こそは!」というYouTube動画を見るにつけ、なワケネーだろ、とかやじったりしていた。


 下で挙げる本を読んで触発され、去年丹後地方を旅した。どちらかというと興味は縄文だったのだが、あちこちの神社巡りをしているうちに、インスピレーションを受けた。あれ、この辺り、普通じゃないよな的な?ワラ。
 そこで、俺の自分なりの分析を一度整理してみようと思った次第である。卑弥呼=アマテラスありきの前提が俺の頭の中あったわけではない。色々合理的?こじつけ的?に見ていった結果たどり着いた推論である。

 以上。

 なんか小説一本書けそうだな。いや、やり過ぎ都市伝説ならガチでいける。ワラ。

 
オススメの一冊。前にも紹介した本だが、俺の浅知恵は、ここから借りてきた。が、邪馬台国=与謝野町説は俺の論だ。キリッ。

 声を大にして言いたい。歴史を学ぶときは、現代から古代に遡れ! 

 海外に出て行って、初めて気がつくことの一つに、自分は日本のことを余り知らない、という事実である。外国の人たちは、日本に興味を持って話しかけてくることが多い。
 日本国憲法のこととか戦争のこと、天皇のこととか政治体制、東アジアの情勢とか、寿司や会席料理の起源とか、東洋哲学や仏教、神道のこと、日常生活習慣のことなどである。

 で、大概はその返答に窮する羽目になる。下手をすると外国人の方がよく知っていることもある。日本は今注目されている。日本人に訊きたいことは山ほどある。こっちは恥ずかしいだけで済めばいいが、まぁ質の高い友人関係を築くことは難しくなる。そこで思い知るのが、俺は日本人なのに日本のことをきちんと説明することも出来ないという現実。そこに愕然とするわけだ。気づけばまだマシな方かも知れない。

 とは言っても俺の場合、仕事上海外から人を受け入れることがあるので、そういう彼らと日本のことを話すことがある。
 戦争のこと、政治と天皇の関係、神話の話、日本人の起源について、日本と東アジアの国の歴史的関係、ナチスのハーケンクロイツが日本中至る所にある理由(これには初めて日本に観光に来ると驚く人が少なからずいる。向きが逆だと言って初めて納得)、神道の神様のこと、何故日本ではキリスト教が普及せず、未だに未開なのかということ(ワラ)、サムライと忍者の違い(ワラ)、日本語と中国語の違い、箸の正しい持ち方、等々を一々説明してやったりする。
 笑えるのは、信号赤なのに、青の矢印が出て、結局行ってもいいというのは、なんでやねん?とか、陸橋の下に大きな鎖がぶる下がっているのを見て(普通気がつかない)、あれはなんだ?とか、普段気づかない疑問が質問として飛んでくると、返答に窮する。
 こういうときは「ねぇねぇ、ダディ、ぞうさんのお鼻はなぜ長いのとかいう質問はヤメロ」と訊いてくるおっさんには言い返してやるのだ。ワラ。

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 今時の日本人の多くは日本の歴史に興味が殆どない。太平洋戦争で戦った相手がアメリカだと言うことすら、なんとなくしか知らんアホもいる。(身内の話だが。ワラ)どうしてそうなるのか、ということを俺なりに考えてみた。歴史は小学校から高校まで多分、9年以上はやる。で、この体たらくだ。
 理由は、その学校教育にあると思っている。子供の頃、毎年歴史の授業があったように記憶しているが、縄文・弥生時代から始まって、奈良・平安時代、鎌倉・室町時代と進んで、戦国・江戸・幕末と学ぶ。大体、歴史授業のクライマックスはこの辺りで山を越える。子供にとって歴史とはそこまでである。
 明治・大正・昭和と来るあたりは、一年のうち大体が学年末に掛かってくるので、なんとなく流しに入る。或いは押せ押せになる。教師も生徒もだ。

 今を生きる日本人にとっては、明治・大正・昭和・平成がもっとも今ある自分を説明するのに一番大事な部分となるのに、そこがいつもお座なりになる寸法だ。しかも、教師側の思想的な偏向が出やすい部分でもあり、危うくすると思想教育になる恐れもついてまわる。
 余談だが、最近のニュースで、中学の半島系?教師が、日本人は歴史を正しく認識し、反省し、謝罪する必要があるなどと生徒に恫喝もどきの授業をしたなどという話もあった。テレビで時々見る自称ジャーナリストの青木理のような輩なのであろう。教師に帰化人はヤバイ。気を付けなければならない。
 要は、事実を淡々と教えればいいのだが、これが出来ない。歴史観が人それぞれであり、この「淡々と」を担保する術がない。多分、教育委員会もそういうことがあって、方針として近現代の歴史はさらっと行こう的な趣に陥っているのかもしれない。

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 それでも、日本人が、己のアイデンティティの源泉である自国の歴史に興味を持つことはとても重要だ。若いときは海外に憧れを持つが、海外を色々と経験してみると、日本が一番いい(或いはマシ)という結論にたどり着く。日本のことをもっとよく知る必要がある。
 ならば、子供のうちから、どのように歴史に興味を持たせるかという話になる。俺の持論は、自分の身の回りにある生活習慣、ルールなどの、身近な興味から入っていけ、である。

 すなわち、「なぜ、日本人は、漢字を使っているのか?」「何故日本には外国の軍隊がいるのか?」「何故、日本には天皇がいるのか?」「何故、日本人は神社にお参りに行くのか?」等々の一見当たり前の日常から、入っていくのである。こういう訊き方をすると、子供は「えっ?」という反応をする。考えたこともないのだ。が、訊かれれば、あれ?とも感じるはずだ。そこが狙い目である。

 毎回毎回、縄文人は栗を栽培して生活していましたとか、奴国の王が漢の武帝?から金印を授かりましたとか、鎌倉幕府は1185年にできましたとか、表面的な事象をいくら聞いたところで、それがどういう意味を持つのかという視点が、欠けている。教科書を十分読み込めば、そういうことも見えてくるのだが、子供らにそのような時間は与えられていない。結果、中身は全くわからない、無機質な記号と数字を覚え込まされる。そういう入りで歴史学習をいくらやったところで、興味は湧かない。頭にも残らない。試験が終われば、ハイさようなら。

  以前、大学のセンター試験の日本史を解くことがあった。大体、何も見ずに、但し時間は掛けるが、55点くらいは採れた。半分以上は当てずっぽうであるから半分はマグレだ。
 それはどうでもいいのだが、試験問題の内容があまりにもくだらなすぎる。クイズ王が得意な問題が多い、記憶力を試す、またはどれだけ詰め込んだかを試す問題だろう。秀吉と家康でウンコの量はどっちが多いか的なくだらない問題のウンコ山積みである。(言い過ぎか?ワラ)
 まぁ、問題作っている連中は、研究室と講演会場、学会以外の下界の空気を半世紀くらい刷っていない輩だと思う。こんなので、日本の未来を担う若者を育てられるのかという話になる。なんか、テンション、怒モードだ。ワラ。
 頼むから、少しは考えてくれ。日本のことを説明できない人間が多すぎる。








 
 

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